2011年3月11日

もし、地震が起きていなかったら今の自分はいない。
はっきり言える。

当時就職活動中で、
自分はどんな企業へ進みたいのか、
何をやりたいのかを考えていた。

そんななか、
地震が起きて、あらゆることが止まった。
企業を含めて就職活動も止まった。

僕は、地震、原発に関する情報を
テレビ、ネットで集めるだけの毎日を過ごしていた。

自分にも被災者の方に何かできるんじゃないか?
被災者の方に何かすべきではないのか?
何もしなくていいのか?

自衛隊含め多くの方が行動に移している姿をみて、
そう言われている気がした。

今、自分は自分の進路のことを考えなければならない。
いや、そんなこと考えている場合じゃない。

色々考えてはみたものの何一つ行動に移すことができなかった。
コンビニのおつりを募金箱にいれることさえできなかった。

圧倒的な無力感に包まれていて、
思考停止してしまった。

数日経って被災者の方も報道で取り上げられることが多くなってきた。
これからどう生きていけばいいのかわからない。
という人が多く、生き方を見失っていた。

大勢の方が死に直面し、
死と向き合わさせられた。

自分は今後どう生きて行くのか、考えさせられた。
大学4年になるという状況で、
進路をどうするのか答えを出す必要もあった。

今何をしたいか、それしか考えてこなかった。
どう生きて行くかということは考えたことがなかった。
何を大切にして生きていきたいか、考えてこなかった。
人生で何を大事にすべきか考えてこなかった。

目の前のものが消え去ってしまって、
自分のアイデンティティを完全に見失っていたと思う。

そこで、自分にとって、生きていく上で大切にしたいものを
改めて考え直してみた。
自分は何を大切にして、生きていくのか。

今までの人生は周りからの問いかけに答えるだけだった。
部活何やるの?
高校どこいくの?
大学どこいくの?
仕事どうするの?

自分で自分に問いかけていなかったから、
考えることができていなかったのだと思う。

選択を迫られて答えるだけで、
選択肢を作る、考えるということをしてこなかった。

だから、震災が起きた直後に
何もすることができなかった。
想像したことのないものに直面し、
選択することができなかった。

少しずつだけど、自分で問いを考えることで
次第に自分の中で見えてくるものがあった。

答えを出すよりも、問題を考える方が難しい。

自分が大切にしてるものについて
まだ文章にしておきたくないのでここでは語りません。

3月11日地震が起きて、得たものは何もない。
でも、気づけたことがある。

自分で自分に問いかけることの大切さ

与えられた選択肢から選ぶだけでなく、
自分で選択肢を考える大切さ

追悼のためにこの文を書いたわけではなく、
自分の初心を守るために書きました。

この日が訪れなかったら、
今、映像を通して表現するということができていなかったと思います。

故人、被災者のために何かを行うという姿勢だけでは、
いつかこの日を忘れてしまうと思います。

自分に問いかける
もっと深く自分がどう生きていくか
大切なものを見つめ直す1日にしたいと思います。

震災だけではなく、
もっと大きく人生を考える日にしたいです。

その深いところから、
自分のやり方で一つ一つの出来事に、
震災に、自分の人生に向き合って行きたいです。

3月11日を過ぎたら、終わったと無意識にも
考えると思います。
だから、翌日の12日の過ごし方が大事だと思います。

3月12日に一体何をするのか?
3月11日が過ぎたら終わりにしていないか?

これは3月12日がどうというわけではなく、
3月11日以降どうしていくかということです。
直接の被害を受けていないと、どうしても薄れていく。
忘れてしまう。

震災によって生活が大きく変わったわけでもないし、
被災者がそばにいるわけでもない。
でも、震災を自分なりに経験した。

わずかばかりだけど、その自分の経験をを通して考えるしかない。
わずかだけど、この自分の経験をまず忘れないようにしたい。
少しでも、傷をおった人のことを考えられるようになりたい。

大事な1日するためにも、
映像制作において自分の信念の一つ。

「声をひろう」

僕が映像制作を考える上で大切にしていることです。

震災を例に話します。

震災に関して報道で取り上げられている人よりも
取り上げられていない人の方が圧倒的に多い。

でも、それぞれ「声」をもっている。
全員が全員、自分の想いについて語ることはできないと思う。
ましてや、亡くなったかたは今後一切何も語ることができない。

その「声」はどんなものか、わからない。
でも、考えることができる。
表現として間違うことがあるかもしれないけれど、
そんな人前で語れないたくさんの想い、
「声」をひろいたい。

一人一人の「声」に価値がある。

これは震災だけに言えることではなくて、
日常に抱える想いなど含めて
全ての語られない「声」についてです。

語りたいけど、語れない「声」をひろうことが
フィクションがもつ力を最大限に発揮することができると、
考えています。

だからこそ、虚構である映画、ドラマをみて
感動して涙を流すことできる。

かならずしも「声」をひろって、涙に変えるわけではなく、
笑顔に変えることもできる。

こんなことを考えているけど、
正直いって今はまだ何一つできていない。
それを実践する現場へ、まだ到達していません。
信念にそえるようにもっと頑張ります。

語られない「声」をひろうことができているのか?
これを忘れずに今後も頑張っていきたい。

最後まで読んでくれた方ありがとうございます。
僕はこんなことを考えています。
少しでも、何か思ってくれたら幸いです。

何か自分に自分で問いかけてみてはどうですか?